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三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

弘法大師伝ーその一

ずいぶん前の話ですが、私が僧侶になるときに
選択肢が三つありました。

一つは旦那寺の宗派である臨済宗。
二つ目は親が得度している天台宗。

しかし、何故かその二つの宗派を選ばず
真言宗を選びました。

それは何故か?
すなわち弘法大師の存在があったからです。

弘法大師は一般には真言宗の開創者としてしか
評価されていないところもありますが
実は文化史に名を残す巨人です。

よく弘法大師は他宗派の祖師と比較されることもありますが、
以前にも書いたように、弘法大師には宗教以外の業績があります。

当時は各国に国学。中央には大学があり弘法大師もそこで
学んでいますが、貴族が官僚になるための学校でしかないため
入学制限が設けられており、学ぶのは儒学が中心でした。

そこで弘法大師は綜芸種智院という
入学制限のない学校を作りました。
そこでは儒教に限らず学問選択の自由があり、
種々のものを広く学ぶ事ができました。

しかも学問のための費用は全額支給するという
現代でもびっくりするような理想を実現しています。

また弘法大師には
文鏡秘府論という詩文の創作理論を取りまとめた著作。
執筆法使筆法という字の書き方の著作などがあり、
さらに篆隷万大象名義という辞典の編纂を行なっています。
これらは皆わが国初めてのものであり、
新しい文化を開いたともいえます。

また、日本最大の溜池である満濃池をアーチ型にして改修を行い
土木工事にも異能を見せています。

弘法大師は宗教家以外でも
歴史に名を残しています。

それ以外にも「弘法も筆の誤り」ということわざもあるように、
書の達人で平安の三筆(すぐれた書家)にも上げられています。

楷書、行書、草書、篆書、隷書の五つの書体を自由に操り
唐でも「五筆和尚」の異名を授けられたといわれています。

詩人としても名を残し、唐の文化人を驚かせる漢文を書き、
サンスクリットを日本に紹介した弘法大師は
極めつけのマルチタレントといえるのではないでしょうか?

一方歴史に名を残す高僧の多くは当然のことながら
幼少の頃から仏門に入っています。

ところが弘法大師が宗教家の道を歩み始めたのは遅く、
意外にもスタートは30歳を過ぎてからです。
それ故、宗教家以外の業績も残しているともいえます。

それにも関わらず宗教家としても即身成仏という
世界の窓を開き、真言教学をほぼ完成させています。

同時期の高僧で比叡山を開いた伝教大師(最澄)の天台宗は
その後進化を遂げ、数々の高僧を輩出し、
さらには浄土系、禅宗系、日蓮宗系へと発展しています。

すなわち、現在の日本のほとんどの宗派は
伝教大師の流れを汲んでいるのです。

ところが真言宗は未だに弘法大師の枠組みの中にあります。
弘法大師がいかにずば抜けていたか!

と同時に真言宗はこの1200年にわたり
弘法大師に比較できる僧侶を唯の一人も
生み出しませんでした(汗) 

さて弘法大師で特筆すべきことは、伝説が多いことです。

弘法大師伝説は全国に3000以上あると言われます。

弘法大師作の仏像は1200以上、筆画は400以上。

開いた霊場は500余。

弘法大師の水伝説は400余です。
(弘法大師が水を掘ったり、温泉を見つけた)

有名なところでは

「いろは歌の作者」

高野山でいろは歌に音楽がついて童謡のように歌われていますが、
「作詞 弘法大師」とあるのを見て目が点になりました!
(ちなみに、現在ではいろは歌の作者は学問的には
弘法大師説は否定されています)

また「唐からうどんを伝えた」ともいわれています。
さぬきうどんの元祖は弘法大師だったんですね!

これだけ見ても「お大師さん」がいかに浸透したかわかります。
何故こんなにたくさんの伝説が出来たか?

その理由は高野聖が弘法大師の宣伝をして巡ったことも
さることながらその生涯にあります。

実は、弘法大師の62年の生涯のうち、
その前半生は謎に包まれています。
その時期に伝説の基となる巡錫を行なったといわれています。

弘法大師は讃岐の豪族の家に生まれずば抜けた才能によって
将来を嘱望されて18歳で京の大学に入ります。

20歳の頃、大学での勉強に飽き足らず、山林修行に入り、
(真言宗ではその頃得度したという説が浸透しています)
24歳で出家宣言書ともいうべき「三教指帰」を書きます。

そこから31歳で得度して唐へ渡るまでの足どりが不明で、
空白の7年間とも呼ばれています。

そして唐へ留学生として渡り、わずか2年で
密教のすべてを真言宗第七祖の恵果和尚から伝授され帰国。

そのあとの活躍は前に述べたとおりです。

しかし上記の経歴はどう見てもありえないように思えます。

弘法大師は印度の高僧が懐に入る夢をみて、
お母さんが身ごもったといわれ、
屏風ヶ浦といわれる善通寺で誕生しました。

お父さんはその地方の豪族の佐伯氏であり、
弘法大師は5~6歳の頃から夢の中で、諸仏と語り、
仏様を泥で作って礼拝して遊びました。

そして、7才のとき、捨身が嶽から仏道に入って
衆生を救いたいといって断崖がら身を躍らせたというように、
子供の頃から仏門に入るべく定められていたように語られます。

真言宗という大教団の礎を作っただけに、
僧侶に成るべくして成ったとして
語られるのが当然かも知れません。
少なくとも、弘法大師伝はそのようにかかれて来ました。

しかし、さまざまな苦悩をしながら、自分の道を模索をして
結果として仏教のみならずさまざまな分野で大きく花を開かせた
弘法大師の姿があっても良いように思います。

ところで、最近は弘法大師伝に新説が出ました。
弘法大師は讃岐の生まれではなく、畿内で誕生。
しかも、佐伯氏は海運で栄えた豪族で
官位を金で買っていた!

とんでもない話のように思われますが、
意外にも、これを唱えているのは
高野山大学の武内教授

武内教授の説によれば、当時の結婚形態は
通い婚(男性が妻の元に通う)で、母親の阿刀氏は
讃岐に住んだ形跡がなく、畿内を拠点にしていた。

しかも、長じるまで母親の実家で育てられるのが普通だそうです。
となると、弘法大師も畿内で生まれた可能性が高くなります。

また佐伯氏が地方豪族としては異常に高い官位を
受けていたことは、朝廷に莫大な献納を行なうことによって
叙位を受ける献納叙位をしていた可能性を指摘しています。

ここからは私の推測です。
弘法大師は中央の大学に18歳で入学していますが、
本来大学の入学資格は、13歳から16歳までです。

従来は地方の国学に学んだ後、優秀なため特別に
許されたとされていましたが、献納によって
資格を得た可能性もでてきます。

それまで、献納によって叙位を受けていた佐伯一族が
正当な方法によって高官を輩出すべく弘法大師を
大学に送り込んだのではないでしょうか?

すなわち、佐伯一族の期待を一心に受けて
いたわけです。

「大学での勉強に飽き足らず、山林修行に入り」
とはとても考えられません。

弘法大師の頭脳ならば大学に入った時点で、
自分がどの程度まで出世できるのか?
瞬時に覚ったに違いありません。

能力に比較して高官の子弟というだけで、
将来を約束される年少の同窓生。

一方、自分の能力に対しあまりにも
低い地位しか与えられないことに
愕然としたかも知れません。

しかし、それを期待している一族の思いを
考えると簡単に大学を辞めるわけには
いかなかったはずです。


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